KOZO MIYOSHI
8x10.jp

THAILAND

516 Kong Krailat 1987

南国の陽のもとで白昼夢にしては、あまりにも煌びやかに艶やかに、繰り広げられる舞い、踊り娘の指の先は、あくまでも繊細で天に向けて、そりかえっている。このおだやかなそりかえりの美しさは、椰子の葉の合間から見え隠れしている寺院の屋根の優雅な曲線と、おり重なって揺ったりした時間の中で永久の方向を指しているかの様だ。純白の大理石で造られた回廊を、両手に靴をとって素足で、少し生温いひやりとした感覚を楽しみながら、ひたひたと音を発てづにはいられない気持で、その回廊に安置されているアジアの各地から集められた青銅や石彫りのさまざまの姿態の仏像を視つめ、見詰められ廻わる。大理石で造られた本堂と回廊は、赤褐色の支那瓦と美事な調和を示し、濃厚な華花の香りがとけあって、風馨る爽やかな気品を感じさせるこの寺には、この国を訪れる度に足をはこんでしまう悍ましさよ。ひたひたと大理石を素足で歩く足裏の感覚は、遠い昔小学校の遠足の時、列に追いつく為小走りでついていく内、左足の靴が脱げ、幾重もの模様が鈍く光る石の床から、小刀で背中をなぞられた様なひやりとした驚きを感じるのと、靴紐を結わきなおして見上げた壁に、金縁の額の中の異国の髭をはやした男が、目を見開いて自分を見据えている事を、絹の様な光沢のあるストッキングの股間から、垣間見た時の驚きが一緒にやってくる、いつとはなしに見る夢物語の一編にでてくる感覚なのだ。なんと肥沃な大平野なんだろう。東には深い緑の市街地が地平線までいっぱいに広がり、西には果樹園、椰子林がびっしりと、果てしなく続いている。そして中央には、メナムの巨大な流れが、ゆるやかに弧を描きながら南流している。この平坦なデルタには無数の網の目の様に、クロンが張り巡らされている。運河は道であり広場である。小舟は自転車であり荷車なのだ。生活のすべてがここにある。大きな鍋をならべて、巧みに艪を操りながら、香草のかおりいっぱいにソバ屋のおばさんがやってきた。その後ろから小振りのバナナを小舟いっぱいにして、これから市場に向かう椰子の葉帽子のおじさんが来た。 強い陽射しにちょっと傷んだ黒髪をうしろに束ねた少女が、仏花にする小蘭を首輪にしながら櫂を操る。巾広の運河から蒸籠に湯気を発てながら肝玉おばさんが来た。今日はお粥にしよう。お粥を釜から器に盛りながら、おばさんは隣の野菜売り船のおばさんと、嫁にいった娘が孫をつれて帰ってくると話している。旨そうなものを受取ろうとした時、大きな波がきて舟が傾きそれは運河にこぼれてしまった。観光用の遊覧船が、けたたましく走り去り、心ない波をたてたのだ。その時一瞬、おばさんの顔が強張った。よそ者である自分も一緒に強張った。でもその後すぐに、元の肝玉おばさんの微笑み顔に戻っていた。マイペンライなのかも知れない。町の朝は早い。朝靄をついて僧侶の列がよろず屋のある辻を曲がってやって来る。十才くらいの幼僧を先頭に年長の僧まで二十人くらの行列だ。それぞれが一抱ほどの鉢を抱えている。沙門は大僧正から見習僧まで木綿の糞掃衣をまとうており、衣だけでは僧の位を見分けることはできない。托鉢の僧に、家の前で待ち受けた家人が、食事を鉢に満たしている。すると、僧は礼もいわず会釈さえせず、その場を立ち去り次に待ち受ける家に向かう。いつかの時代から続けられ、明日も続けられるいつもの光景なのだ。早朝のこの営みの清々しさと、ちょっと不思議な光景の為に、旅にでるといつも早起きをしてしまう。僧侶は乞う者なのだ。僧に食事を供養することによって功徳を得るのは、供養者自身であって行乞の僧は、鉢に供物をされても礼をいわない。合掌して徳行を得る機会を与えてくれたことに感謝の意を表すのは、供養する人の方なのである。 東の空の雲のきれめから南の国の朝日が覗きだし、町外れから遥か彼方の山の麓までつづく稲穂に照り差している。朱色の糞掃衣の僧の一行が托鉢をおえて、川岸に建つ寺に帰って行く。今日が、又 始まるのだ。列車は、夕暮れ時のバンコクの喧噪の中を、ラオスとの国境の町ノンカイに向けて、暑さで疲れた身体に心地好い振動を伝えながら走り出した。二日前に予約を入れたのだが、コンパ−トメントが取れたのは、南からの旅から帰ったばかりだったので幸運だった。タイ国の中でもっともタイらしさをとどめているイサ−ンといわれる東北地方がこの度の旅の目的地である。列車は夜通し走りつづけ、終着駅に着くころには夜も白々と明け、田んぼで働く農夫と水牛が、のんびりと過ぎ去ってゆく。車窓から入ってくる風も清々しく、すこしは北に来たのだと感じる。川幅1Kmの向こうはビエンチャン、ラオスだという。川岸の食堂の女主人は、隣り町のことを話すような調子で喋っている。送電線は続いているし、ラオスの物産もこの町で売っている。それに言葉も同じだという。しかし、このメコン川沿いに50〜60Km走っただけで三ヶ所の検問所に出会った。それにしても、以前は自由に往き来できた対岸の町が、今は政治的権力で隣りの国となってしまった現実を眼の前にして、自然の歴史の大きさと人間の歴史の小ささをここでも思い知った。今朝も八時に迎えにきた。もう三日の付き合いだ。無口で純朴そうな運転手さんで、毎日、出発の前に日程と移動距離で値段の交渉をする。朝食と昼食は彼と同じものを注文する。毎食、違った田舎料理が食べられてとても楽しい。昨夜は、夕方スコ−コルがおわると西陽が部屋中を掻き回すような宿に泊まった。その町にはタクシ−が無いため、バスでの移動となった。予定の次の町に早く着きすぎるので、、途中下車してバスタ−ミナルで一休みと思い、ベンチで昼寝をしていた。暫くして、ざわめく気配に、ふっと眼をあけると人垣ができている。あわてて通訳( 実は妻) とアシスタント(実は五才の娘)を揺りおこす。外国人旅行者が迷って、こんな小さな村に来てしまったと思っているらしい。イサ−ンと呼ばれているこの地方をバンコクに向かって南下して一週間、大小さまざまな街や村を通過してきた。乾期には干上がる大地も、今は雨期なので田んぼには水が満々とあり、荒寥とした感じはあまりない。しかし、土壌に保水力がないため、大雨になれば一気に水は溢れ氾濫するという。豊かな自然の恵みを受けて、豊富な果実、野菜、そして魚類をいたるところで見ては、羨ましいかぎりだと思っていたが、この地方では、ちょっと違うようだ。バンコクで逗留している知人宅のメイドさん達が、この地方の出身である。彼女らの奨めてくれたカオ・ニャオ(おこわ)、ソムタム(青いパパイヤ極辛サラダ)、ガイ・ヤン(焼き鳥)は、この地方の三大料理(?)で、毎食でもあきないほどである。 このプ−ルのあるホテルは、かって米軍が使っていた、ベトナム戦争の遺物である。通訳もアシスタントも毎日の暑さと移動で疲れているらしい。二日間の休暇をあげることにした。今日の運転手さんは「OK」だけが、私にわかる言葉である。私のタイ語は「写真を撮らせてください」と「ありがとう」の二つである。今日は、この付近に点在するクメ−ル時代の小さな遺跡を訪ねることにした。ほとんどの遺跡が観光局に尋ねても不明で、それらの遺跡の場所を説明できない。ようは、そのような場所は外人の行くところではないと、決め付けている。おまけにゲリラが出ると脅かす。「OK」の運転手さんは、ただひたすら車を走らす。にわかに雨雲が広がりスコ−ルがくるようだ。このスコ−ルがあがるころには、遺跡が見つかるかもしれない。私は、もう見慣れてしまったタイの田舎の風景を見ながら、日本の東北の景色を目蓋に思い浮かべていた。